Paul Davis「Southern tracks and fantasies」(1976年)
購入したのは20年くらい前。
当時アメリカ南部発祥のスワンプロックと呼ばれるジャンルに興味があり、中古レコード店でそれらしい品物を物色中、全く知らないアーティストなんだけどなんだか不思議な南部テイストを醸し出すジャケットに惹かれて購入。
家に帰って聴いてみたところ、南部っぽさを漂わせながらも洗練されたメロディやアレンジがまさに僕のツボでした。
ポールデイビスはAOR界隈のアーティストとして80年代にはいくつかヒット曲を出しており、後に僕も彼のアルバムを何枚か購入したのですがこのアルバムが1番好きだし、クオリティも高いと思ってます。
このアルバム、ネットで検索してもあまり情報がなく、まさに"知る人ぞ知る"1枚。
自分だけが知っているという優越感を感じる一方、共通の話題として語れる人がいないのは寂しい(笑
僕的にはA面が圧倒的に好きで、特にA①のSuperstarにこのアルバムの特長が凝縮されていると思ってます。
南部っぽいリズムにAOR的な洗練されたメロディがとてつもなく気持ちいい。
A② Medicine womanもアダルトな雰囲気で良い。
A③ Teach me how to rock&roll
A④ Reggae kinda way はラテンやレゲエのリズムで始まり南部っぽいロックンロールなサビへ展開。この辺の雰囲気はレオンラッセルをイメージさせる。
A⑤ Thinking of you 雰囲気はカントリーなんだけどこれもメロディが洗練されているんだよね。
AORとかロックとかカントリーとかジャンル分けしづらいからといってスルーされてしまうのも勿体ない。
混ぜ合わせこそが音楽の醍醐味なんだから。
もっと聴かれるべきアルバムです。
あとやっぱりジャケットがとても好きです(笑
国道36号線 旧ルート(植苗)
前回のブログで国道36号線の錦岡旧ルートについて書きましたが、植苗にも旧ルートがありました。
下記図の「大曲」と書かれている部分がそうです。
(植苗美沢のあゆみより)
昭和27年の航空写真では大曲のルートがくっきり写っています。
(国土地理院 昭和27年航空写真)
同じ位置の現在の航空写真はこちら。
旧ルートの跡らしきものは何となく確認出来ます。
分かりやすいように旧ルート跡らしきところを白線で示してみました。
なおこの不自然な大曲ルートの理由を知りたくて調べてみたのですが、今のところ分かっていません。
美々川がひどく蛇行している部分なので
恐らくは地質的、当時の技術的な問題でこのようなルートが採られたのではと推測しています。
またルート切り替えの時期ですが、これもはっきりした資料が見つかっておらず、直線の新道部分は北海道が寒冷地向けの試験道路として敷設したもので、この工事が昭和35、6年に行われているので工事完了次第切り替えられたと推測しています。
「植苗美沢のあゆみ」にも"千歳から美々坂を下った大曲のところで大きく西に迂回していた"としか書かれておらず、疑問が残ったままです。
参考までに旧ルート出入り口の現在の写真を掲載します。
苫小牧寄りの出入り口。
現在民間企業の土砂採取場となっているため勝手には入れません。
そして千歳側の出入り口。
こちらは入れそうなので少し奥まで行ってきました。
国道と呼ぶには貧相でしたが一応道の跡らしきものはありました。
この出入り口にフェンスに囲まれてコンクリートの残骸が並べられているのですが、これ使用済みのコンクリート製橋梁の耐久実験を行なっているそうで、150年間置いといてコンクリートの変化を観察してるんだとか。
そんな壮大な計画が旧道の跡で行われているなんて思ってもいなかったです。
市内における国道36号線の旧ルートですが、実はもう1箇所あるんです。
一本松、柳町辺り。
ここも港の工事に合わせて切り替えが行われているので時期としては錦岡、植苗と同時期なんですが、同じように資料がほとんどありません。
もう少し調査を続けますので整理出来次第書きたいと思います。
国道36号線 旧ルートについて(錦岡)
苫小牧を東西に貫く国道36号線。
その36号線に旧ルートが存在したことはあまり話題に上らない。
しかも錦岡と植苗の二ヶ所もあったのに。
今回は錦岡の旧ルートについて紹介します。
(昭和38年の航空写真)
現在の36号線、錦岡地区は海沿いを通りますが以前は線路を挟んで山側を通っていました。
航空写真は現ルート開通後の昭和38年のものですが、昭和35年5月の苫小牧市広報に現ルート舗装工事のお知らせが掲載されていましたので、現ルート開通は昭和35年後半と思われます。
さて、旧ルートですが市内から室蘭方面へ向かうと海側にダイナムというパチンコ店があります。ダイナムを過ぎるとすぐ右手に踏切があります。
この踏切が旧ルートの入り口になります。
なおこの踏切の名称は「札幌通り踏切」、36号線は昭和27年に国道と規定されるまでは札幌本道(札幌通り)と呼ばれていたので、まさにここが札幌通りにある踏切だったのですね。
この踏切を渡って錦多峰川を越えたところに明治天皇行幸記念の碑が建っています。
明治天皇は札幌本道(現36号線)を通って行幸していましたので、そのことからもここがかつて旧ルートだったことが明らかになります。
旧ルートはこの後、錦岡駅前を通り、そのまま真っ直ぐ樽前方面へ。
樽前に到達すると突き当たりを左に進み現ルートに合流します。
なおここの踏切にも、この道が旧ルートだったことを明らかにする名称がついています!
その名もズバリ「旧国道36号線踏切」
なぜ当初は真っ直ぐ海沿いを通らなかったのか?
資料が見つけられず確かなことは分からないのですが、錦多峰川の河口辺りの蛇行が酷くて昔の技術では道を通せなかったのでは?という意見があります。
確かに航空写真を見ると、川が激しく蛇行しているのが分かります。
錦多峰川は昭和50年前後に大規模な改修工事を行いキレイに直線化されました。
それにしても、約60年前は駅周辺に集落があるくらいで他は何にもなかったのですね。
大江千里「未成年」(1985年)
リアルタイムでは録音したカセットテープでしか持ってなかったけど好きでよく聴いてたわ。
大人になってからアナログ盤を購入したんだけどたまに聴きたくなり、聴き始めるとハマり、数日間聴き続けちゃう。
当時はB④十人十色がテレビ、ラジオでよく流れていた。
同じ系統のA②Sexuality、B①赤茶色のプレッピーなんかも好きだな。
でもこのアルバムが僕にとって特別なのは、どこかノスタルジックな雰囲気のA④真冬のランドリエとB②プールサイド、B③渚のワンサイドサマーが収録されているところ。
中学生でこの雰囲気が好みというのは、やっぱりマセていたんだろうか?
いや、きっとロマンチックな少年だったんだろ(笑
なおYouTubeではライブテイクしか見つからなかった。
この頃すでにホールクラスでのライブを行うくらいの人気はあったはずなのに、アップされている音源はこの後のものが多い。より人気が一般的になったのはこの後からなのかな。
クレジットを見てみるとギターで参加しているのが佐橋佳幸氏。
現在の達郎さんバンドのギタリストで松たかこの旦那様。
このアルバムのプロデュース&アレンジを担当した清水信之氏の学校の後輩だとか。同じく清水氏の後輩のEPOさんもコーラスで参加。
この頃のPOP感満載のEPOさんのアルバムも清水氏がプロデュースしてるもんね。
ジャケットのモノクロームな雰囲気も、このアルバムを好む理由の一つだったりします。
植苗 佐々木沼
植苗地区学校記念碑探索の際に偶然見つけた沼。
道路沿いから見るとこんな感じ。
地図に名称なども書かれていないし、webでも情報が拾えなくて秘境の沼といった感じ。
「植苗美沢のあゆみ」には短いですが記載されていました。
「佐々木沼…パンケナイ川の上流の沢地にある小沼で、かつて佐々木治助の住居があったことから地域の人は「佐々木沼」と呼んでいる。この沼には今でもサケが遡上している。」
また林業の欄にも次の通り記載があります。
「三百万坪から佐々木さんの沼までレールが敷かれていた。トロッコで運ばれてきた木材を沼に下ろすと、そこからパンケナイ川→美々川→ウトナイ湖と流送していた」
年代は書いてませんが恐らく大正時代から昭和の初期くらいなんでしょうか?
今通っている林道にレールが敷かれていたのかな?とか想像するとワクワクしちゃいますね。
では最後に湖畔からの写真をどうぞ!
苫小牧 植苗小学校記念碑巡り
以前、美沢地区を探索した際に「美々尋常小学校跡地」記念碑を見つけ、その後「植苗美沢のあゆみ」という町内会の記念誌を読んでいると同時期に植苗地区でいくつか学校跡地に記念碑を建てたとの記述と写真が掲載されていました。
町内会誌によると記念碑は全部で5つ。
それぞれの写真は町内会誌に載っているのだが場所が全く分からない。
後世のためにも場所も含めて記録を残さなければ、という事で記念碑探しを開始、2週間かけてコンプリートする事が出来ました。
参考にしたのは「植苗美沢のあゆみ」及び掲載されていた昭和8年の苫小牧町管内図、「苫小牧教育史」に掲載の植苗地区学校変遷図。
①植苗尋常小学校発祥の地
明治36年に苫小牧尋常高等小学校植苗簡易教育所として開校。
大正10年に移転するまでこの場所にありました。
市内から札幌方向に向かって植苗墓地の看板を目印に左折したところです。
②旧植苗小中学校跡地
大正10年に美々尋常小学校、植苗特別教授場との合併に伴い移転。
昭和22年に中学校併設、昭和47年までこの場所にありました。
池などもあり立派な学校ですよねー。
市内から札幌方向に向かって、千歳空港線の一つ手前、この看板を目印に左折。
学校跡地は左折してすぐです。
よく見ると茂みの中に校門が残っています。
なおどこを探してもこの辺りに記念碑は見つかりませんでした。
そこでこの跡地に隣接したお宅にお邪魔し、記念碑のありかを尋ねるとここから少し山側に入ったところにあると教えてくれました。それがこれです。
目印はこの地区の集会場。
③植苗共有地特別教授場跡地
大正8年に開校したが集落の人口減少により大正10年に植苗尋常小学校に統合される。
これが一番難儀しました。
想定される場所に行くには車1台がやっと通れるくらいの林道しかなく、果たしてそんなところに記念碑を建てるものなのか?
偶然図書館で出会った植苗の自然に詳しい方にダメ元で聞いてみると、やはり想定した場所のようです。
先ほどの旧植苗小中学校からひたすら山側に車を走らせると途中二股に分かれた道が現れます。
目印は熊出没注意の看板。この二股を右に進みます。(狭い林道でやや不安になりますがどんどん進みます。)
そうすると突き当たり、少し開けた場所に出ます。今は市有林となっており植樹したばかりの小さな木に囲まれたこの場所に記念碑はありました。
昔の学校の写真と現地を見比べると後ろ側の丘の様子が今の風景と同じような感じです。
④三百万坪特別教授場跡地
大正12年開校。先ほどの共有地から移ってきた人たちを中心に集落が作られ児童数も88人いたそうです。
しかしここも人口減少により昭和2年、植苗尋常小学校に統合されました。
三百万坪は先ほどの熊の看板の分かれ道を左に進み、山に向かってひたすら直進。先の方に高速道路が少し見えてきた辺りの右手に記念碑は建っていました。
実際の跡地は右手の林道の先のようです。行ってみましたが痕跡らしきものは見当たりませんでした。
なおこの三百万坪辺りは西部落と呼ばれる地区で昭和40年代までは住人がいたようです。
隈なく探せば集落の痕跡なども有るのかもしれませんが、ゴルフ場やイコロの森の敷地と重なっており探索は難しそうです。
⑤美々尋常小学校跡地
大正3年、美々特別教授場として開校、大正6年に美々尋常小学校に改称されるが大正10年、植苗尋常小学校に統合された。
この記念碑はGoogleマップでも確認できるのですぐに見つかります。
なお実際に学校が建っていたのはこの記念碑の道路を挟んで向かい側だそうです。
探してみましたが学校の痕跡はありませんでした。
これらの記念碑は平成15年の植苗小学校開校100周年記念事業として、地区の皆さんが建てられたものです。
明治から始まった植苗美沢地区の入植の歴史が感じられる貴重で素晴らしい記念碑です。
周囲の風景も素晴らしいものがありますので、機会がありましたらぜひ現地にて100年前の人々の暮らしに想いを馳せてみて下さい。
苫小牧 錦岡 石碑巡り②
(2020年4月1日撮影)
めっちゃ自宅から近いのに今まで全く気づいてなかった碑。
1909年(明治42年)錦多峰地区の入植者第一号として開墾にあたり、昭和2年に亡くなった作田高之助の功績を称え、当時の苫小牧農事実行組合有志が建立した。
当初は錦多峰川を挟んで西側の現三星店舗付近にあったが区画整理事業により現在地に移設された。
なお、現在地もただいま道路工事中であり、今後移設される可能性が高い。
(2020年4月28日撮影)
②川村嘉市翁碑(昭和28年建立)
(2020年4月1日撮影)
場所は錦岡小学校敷地内。
碑の大きさに対し台座の巨大さが目を惹く。
錦岡小学校の前身は明治23年、覚生の海岸に創立された覚生尋常小学校。
大正11年に現在地に移転。昭和28年の校舎新築の際に現在地を寄贈してくれた川村嘉市翁への感謝を込めて、学校とPTAが建立した。
川村嘉市は大正6年に錦多峰に定住、網元として川村漁場を設けたが漁場の衰退を受けて、商店を営んだり砂利の採取権を取得し事業を営んだ。錦岡地区の発展の先駆者として率先奔走した人物。
なお、この碑、碑の真正面に物置が置かれており正面からの撮影は不可。
※物置のある方が碑の正面。
なんでこんなところに物置を置くのかと唖然とします。
冒頭のMAPには、以前に取り上げた御駐蹕之蹟と馬壢神の場所も入れましたので、興味ある方はぜひ現地を訪ねてみて下さいね。